プロフィール

1972(昭和47)年4月 25歳。大学院へ通う。
「日本の近代」を捉え直そうという気持ちが昂然とわいてきた。大学院へ行こうと決めたのは正月である。

 橋川先生に初めてお会いしたのは、二十五歳のときだった。一九七二年三月である。
その当時の自分自身について、いまだに充分に気持ちを整理できないでいる。でも橋川先生に出会わなかったら、たぶん僕は『ミカドの肖像』を書こうとはしなかっただろう。

 そのころ、僕は活字を、というより言葉を毛嫌いしていた。大学を出てから二年間、いっさい”建設的”な会話をしないでいた。本も読まないし議論もしない。そういう暮らしを求めていた。僕が地方国立大学の全共闘議長だったことと大いに関係があった。学生運動の後遺症(トラウマ)と、ひとことで片づけてしまうわけにはいかないが、学生独特の空疎な議論が嫌になっていたのは事実である。学生という実体のない世界と早く縁を切りたいと念じ、そう思いはじめたら、いてもたってもいられなくなって、上京したのだった。

 一九七二年の正月。肉体を酷使するうちに余分な感情に汚された言葉が濾過され、もう一度、本を読んで自分の歩んで来た思考の道筋を整理する気になった。全共闘での混沌のなかで考えた問題を解決できるのは、自分自身でしかないのだ、と。僕は橋川先生の著作のいくつかを読み返しはじめていた。天皇制についての左翼の議論に飽きたらなくなっていたからである。一九六八年に三島由紀夫との間で交わされた「中央公論」誌上での論争で、橋川文三の名前は心に刻まれていた。三島由紀夫にシンパシイを抱きながら、でも論破するという政治思想史家なら、僕の抱えている混乱を整理してくれるのではないか。
求道者のように、一途に考え込んでいた。直接お伺いしてみようか、でもそれでは失礼だ、授業料を払って大学院に入れば質問する権利がある。そう思って、明治大学に問い合わせた。

 いまから考えてみるとおかしいのだが、それまで橋川先生は文芸評論家と信じていたから、てっきり文学部教授だと勘違いしていた。政経学部だということがわかった。試験の日取りを訊ねると、二カ月あまりしかない。英語もすっかり忘れていた。あわてて書店で参考書を買った。『英文解釈促成七週間』というタイトル。試験というものを久しぶりに受けた。論文三題のうち二題選択。そのうちのひとつがナショナリズムの理論について論ぜよ、とあった。橋川先生の出題だとすぐにわかった。面接で、
「いい文章だ」と声をかけてくれた。そのひとことで、学生運動後の辛い気持ちが癒された。
大学院の学生であっても、僕はいわゆる社会人でもあった。学部から進級した学生のようにキャンパスにたむろする暇はなかった。わずかな時間を見つけて、駿河台に通った。小学校以来、学校ぎらいだったのに、進んで学問を求めている姿は、自分でも奇異な感じがした。

 橋川先生はベタベタした関係は嫌いな気がして、僕はいつも距離を置いていた。ときどき、一線を越えて生意気な発言をしてしまう。「この不良少年め」と、口にしながら目を細めているのがわかった。

 修士課程に籍を置いたのは三年間だが、通ったのは実質、一年間のみだった。三年目に修士論文を提出した。書き上げたとき、「これは間に合わせにすぎない。まだ描ききれていない」と悟った。ではどうすれば書けるか。漫然と博士課程に進級するクラスメイトと袂を分かち、自分自身をもう一度つかみ直そうと決意して、大学を離れることにしたのだ。

「橋川文三先生の思い出」(87・3)『僕の青春放浪』所収

 仕事を終えてから、豊かな緑に覆われた上野公園の一帯をぼんやり眺めていると、しだいに記憶のなかの光景が二重写しになってきた。二十代に美術関連の出版社に勤めたころがよみがえった。時間が許すかぎり上野の美術館に足を運んだ。日展や院展など公募展だけでなく企画展も全部覗いて歩いた。

 おびただしい量の絵画を、飽きずにあれほど熱心に鑑賞したことは過去にも現在にもない。
ゴッホの自画像に魅かれ、人物画にばかり気をとられた。学生運動の後遺症だと思う。情念が煮えたぎった局面では、ちょっとした言葉が諍いを招いた。それで散々に疲れた。だからもう他人と関わるのはよそう、と決意した。いまになれば癒しを求めていたと理解できるが当時はただ夢中だった。

 美術館通いを切り上げる時分にその出版社を辞めた。転職だらけで社会人としての苦労は経験したつもりである。作家の吉行淳之介が若いころの小さな出版社での出来事を記しているが、僕も似たり寄ったりのにがさを味わった。返本の山が小さな編集室にまであふれ積まれていた。営業の男が、ちぇッ、こんなもの、と足蹴にした。そのとき吉行は、うッ、痛い、と感じた。立派な本とはいえないが自分がつくったもの、分身である。書店の奥のほうで荷造りのビニール紐が返本の束に食い込んでいる様子など、僕はいまだに痛々しくて直視できない。
 結局、いっさいのわずらわしさから離れ、ひとりで仕事をするにはもの書きになるよりない、と決めた。とりあえずは注文された記事を書けばよい。慣れないうちは、そううまくはいかないものだ。

 吉行淳之介に「娼婦の部屋」という短篇がある。主人公の「私」は小さな雑誌の記者で、汚職の噂がある大臣邸に行き夫人にインタビューする設定である。「夫人は記者ぎらいで有名で、玄関から中へ入れぬおそれが十分だった」ので対策を講じなくてはならない。下調べすると夫人は「骨相学に熱中していて、その話となるとおもわず一膝乗り出してくる」らしい。応接間で骨相学の蘊蓄(うんちく)を前ふりにしてインタビューは成功しかけるのだが、突然、彼女は名刺をしげしげと見つめた。「あんたは記者じゃないの」と鋭い剣幕、せき立てられるように外に出た「私」は「毛を毟(むし)られたにわとりみたいに見える」姿で娼家の立ち並ぶ街へ向かう。このあたりの心境が僕には手にとるようにわかる。わかってどうする、と問われても、別段、得するわけでもないが。

「ぼちぼち壁に……」(99・9)『明日も夕焼け』所収

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