信州大学教育学部附属長野小学校は通知表のないめずらしい学校で、ただ好奇心だけがあればよかったが、それでも座学は退屈だった。低血圧の僕にとって朝は辛いが放課後は元気になった。校庭が二つあり、建物の裏側の庭は自然に生えたクローバで敷きつめられていてそこでよく遊んだ。夏にな ると炎天下、郊外の森まで三十分も四十分も歩いて、昆虫採集に熱中した。
小学1年生
母はいつも僕の偏食を心配した。タラコ以外に食べないからである。みそ汁、漬物、野菜は見向きもしない。寝起きが悪く、朝方は不機嫌でよく泣いた。叱ると余計に泣くので諦めて折れるしかない。困った奴である。
お腹がいたい、というと母は、どうしたの?まさか腸捻転じゃないでしょうね、と大げさな診断をする。 膝がいたいというと関節炎、胸が苦しいというと狭心症、と疑うのである。父が急死したことで過敏になっていたのだろう。
二十歳を過ぎると、大根の煮物と里芋の煮っころがし以外は、だいたい食べられるようになった。いまだにあのころの偏食の原因はわからないが、高価なタラコを好んだのは塩分とコレステロールを補給しようとする生存本能だったように思う。血圧が低いことに誰も気づかなかった。小学生時代、低血圧という概念がまだこの世になかったのである。
寝起きが悪い、という事実はいかんともしがたい。生理的な情況が、僕にとっては第一義的に優先された。教室ではいつも頬づえをついて躯を斜めにしていると疲れないなどと、そんなふうな仕方で自分の肉体に折合をつけると個性に対する認識が芽生えて、ものを考えるきっかけとなった。
「タラコと生存本能の関係」(98・1)『僕の青春放浪』所収
僕の少年時代は、西岸良平の描く「三丁目の夕日」の世界と重なっている。電信柱は、当然木製で、夜になると裸電球が光り、蛾が舞っている。コンクリートの道路はバス通りだけだったが、やがて黒いアスファルトの舗装が住宅街の路地裏を埋めはじめる。大きな建物が少なかったから、銭湯の煙突がランドマークだった。夕方になると豆腐屋さんの喇叭(らっぱ)がもの哀しく鳴り響いた。その脇を小型のオート 三輪車がバタバタと頼りない爆音を発して走り抜けた。青い排ガスの臭いを芳しく思ったものである。
小学生にとって文房具屋さんは小さなデパートだった。ノートや鉛筆などの機能的な道具ばかりを売っていたわけで はない。色とりどりの輪ゴム、匂いつき消しゴム、くにゃくにゃの下敷き、紙セッケン、昆虫を殺す注射器などあらゆるまが いものが子供たちの好奇心を満たすべく並べられていた。
ある日、通学途上、学校近くの文房具屋さんの前に、僕の名前が貼りだされていた。
「一等賞・万年筆――附属小学校三年・猪瀬直樹」
十円で一枚の抽選券がもらえた。そこに名前と住所を書き込む。一年に一度の文房具屋さんのお客さん感謝デーだ ったのだろう。間口三間ほどの店としては、ずいぶんの奮発にちがいない。籤引(くじびき)に当選する輝かしい体験は僕の生涯で 、たぶんこれが最初で最後なのだ。
黒いエボナイトの胴体と金色に輝くペン先、ブルーに濡れた文字を眺めながら、僕は複雑な仕掛けをもつ精巧な道具に魅せられていた。
母親にせがんでインク壜を買ってもらった。紫色に透きとおった壜をかざして、見たことのない深い海底を想像した。肌色のゴムと薄いガラスで できたスポイトをつまんでインクを吸う。秘密の実験のようで、心がときめいた。ところが、インクで汚れた手は石鹸でこすってもなかなか落ち ないのである。本物の道具は素晴らしいけれど、なかなか怖い。そういうことがわかってくる。昨日まで文房具屋さ んに並んでいたさまざまな宝物が急に色褪せていくのだった。
小学校に万年筆を持っていくことは禁止されている。万年筆はそのうちに僕の手から離れ、母親の部屋の一隅に置かれた。ごほ うびになにがしかの小遣いをもたされた僕はまた悪童たちと学校帰りに寄り道をしながら文房具屋の店先でたわいもない新製品をいじくり 回していた。でも、もうあの万年筆の、手にしみついたインクの強烈な毒を感じたあとでは、どこか醒めてしまっていたのを憶えている。
「万年筆の想い出」(90・12)『僕の青春放浪』所収
銀幕のなかの若い女優はみな長いスカートをはいていた。台詞には、ちょっとした癖があるのだ。
「あら、よくってよ」
この「てよ」がなんともいえない。不思議にレトロな気分に浸らせてくれる。明治・大正のころの名作を読むと「てよ」は、はす っぱな女学生が使っている。「いやだわ」の「だわ」も下品な言葉で、両者を合わせて、最近の娘たちの「てよだわ言葉」、なんとかなら んのかと非難されていた。映画が誕生するはるか以前、大昔の話。
映画のなかの娘たちの「てよ」の、生意気そうな、危なっかしい上品さが強い印象で残っている。ヒロインたちは恋愛を成就させたあと、どん な運命が待ち構えているのか知らずに物語は〈完〉でこの世から消え去る。母親と並んで観た映画はたいがい大人の恋愛映画な のに不思議と幼い僕にも違和感はない。親子いっしょに頑張っているぞ、と連帯感があったのだと思う。父親が過労で突然死したた め、若い未亡人を慰める娯楽は映画をおいてないのだから。
大人になってから、なぜ再婚しなかったの、と訊ねたことがある。そんなにきちんと説明できるものではないよ、と言っ た。さらに、いまの時代とは違うものね、とも言った。あとのところでは、軽いため息が混じった。
身内のことなので言うのを憚かる気持ちがあるのを承知していただくとして、母親は美人だった。学歴が役立って仕事を持つこ とができた。仕事のため、おしゃれに気をつけたせいかもしれない。気が張っていたせいかもしれない。
大宅壮一が「男の顔は履歴書である」と名言を吐いたのは、どんな男でも仕事しだいで顔が磨かれるから である。仕事を持つ女性にはあてはまるだろう。
つぎにお付き合い願う短歌は、父親と死別してしばらくのちに詠んだものである。
火照りたる躯を雨に打たれゐしかかる愉悦をきみは知らざり
魔法の杖になるかもしれぬ一本のアンブレラもち森へゆくなり
はじめの歌はどちらかというと与謝野晶子ふうで情熱的、つぎの歌は俵万智的なモダンの作風といえる。女性のほうが短い表現で自 分を表現する力がある。愚痴を避けて巧みに夢見る力がある。
短歌の雑誌に載ると、ある有名な評論家が会いたい、と連絡してきた。そんなことがあったんだよね、と僕は訊いて、どうだ ったの、とたたみかけた。
「お酒をどんどん呑んで、注がせるの。目的が違う感じがして早々に引きあげた」
男性中心の文化のなかで、子連れの未亡人が生きていくのはたいへんだった。純情な人だから、そのぐらいの経験がせいいっぱいの背伸びであった。だから女流作家と呼ばれて活躍した人たち、いやいまも 活躍している人たちが、有象無象どもを吹き飛ばす、どれほどの強いオーラを発散させながら仕事に打ち込んでいるのか、少 しはわかるつもりである。女流作家だけではない。ビジネスでも男中心の社会のなかで、子育てをしながら男性と対等にわたり合 っている女性が大勢いる。常人の何倍ものエネルギーが必要だろう。そういうことを、僕はたまたま理解できる。
母親は乳癌を患い、つぎに脳腫瘍の手術もした。年齢はいまの僕より若い。これもまた身びいきとそしられるが再び許していただく として、佳人薄命。でも、どうにかなるさ、と楽天的だった。
病気もせずに、少しぐらいの貯金があるような、平穏無事の暮らしがどれほど大切か、僕は子供心に学んだつもりだが、結局 は不安定なもの書き稼業を選んでしまった。
「きみは知らざり」(99・6)『明日も夕焼け』所収