1959(昭和34)年4月 中学校入学。
著作集第9巻『唱歌誕生 ふるさとを創った男』の解題に「国際化時代と日本人の生き方」として、母校での講演録( 「信州大学教育学部附属長野中学校五十周年記念講演」)を収録してある。
中学時代はトンネルのようで、早く抜け出たいと思った。
中学1年生のころ
ウィーンの街で探し物をしていたときだった。見上げると十二世紀に建てられた有名な聖シュテファン教会がある。せっかくウィーンにいるんだからな、善男善女のつもりでお参りでもしておこうか。なんとなく中へ入っていく。
この薄暗さ、抹香臭さ――。
瞬時に僕の記憶はよみがえった。長野の善光寺である。
聖シュテファン教会と善光寺。キリスト教会と仏教寺院、その内部の空気がこれほど近しいとは思わなかった。ヨーロッパのキリスト教会を幾つも覗いたことがあるけれど、善光寺を想像したのはこのときだけである。おそらくあの教会の内部空間は、ヨーロッパ近代よりは中世を、生よりも死を、より感じさせたからなのかもしれない。聖シュテファン教会は時代ごとにさまざまな様式をつけ加えた結果、どこにも属さずどこにも似ずにいる、 そんな佇(たたず)まいもまた善光寺と共通するからだろうか。
善光寺は、京都や奈良のお寺と少し囲気が違う。京都や奈良のお寺は為政者に認知されたような、どこか居住まいを正しているところがある。伝統を強調しているところがある。善光寺は、京都のお寺に勝るとも劣らない伝統もあるが、ちょっと違う。庶民的な空気が、どちらかといえば東京の浅草 寺に似ているが、これもちょっと違う。風情が違う。
善光寺は、もう少し、どっしりとしている。通俗性と荘厳さが、みごとに共存している。純粋に建築構造的な問題も無視できない。善光寺はふつうのお寺とは違ってめずらしい縦長の構造で、キリスト教会と同じスタイルなのである。
善光寺のある街にいた、というのは後に思うことで、少年時代には特別なことではなかった。
信濃では月とほとけとおらが蕎麦
という一茶の句を意識したのは東京で暮らしてからである。むろんお月さまを見てうっとりするような少年は気味が悪い。いま僕は大の蕎麦好きだが、子供にとっては蕎麦よりラーメンがおいしくて、長野に住んでいたからとくべつに蕎麦を多く食べたわけではない。蕎麦は観光客が食べていたのである。月と蕎麦はともかく、ほとけ即ち善光寺はただ意識のなかに溶け込んでいた。
長野市は門前町である。長野駅から善光寺まで二キロメートルほど、中央通りという名のやや勾配のある広い一本のバス通りが走っている。長野駅の近くから、はるか彼方に聳(そび)える善光寺を望むことができた。両側に商店が並ぶ。土産物屋は駅前と善光寺付近で、あとは日常生活のためのふつうの商店街である。善光寺の境内を無造作に横切り高校へ通ったし、デートの待ち合わせの便利な目印でもあった。暮らしを中心に描けば、背後の余白を埋めるあたりまえすぎる存在だった。
善光寺を、とくにお寺とは思わずに、ただそこにある確固とした構造物として受け止めていた。よく伽藍(がらん)のなかの暗い空間を見上げたし、独特の香りは異次元を感じさせた。黒ずんだ太い柱、仁王様の形相、牛に引かれて善光寺参りの着物姿のおじいさんやおばあさんの団体さん。余白の風景は、黙って僕のなかに沈んでいたのである。
旅先のウィーンの教会で出会ったのは、そんな僕の少年時代に見た懐かしい、いまもあそこにあるだろう、静かな暗がりである。
「善光寺の闇の彼方」(97・2)『僕の青春放浪』所収