プロフィール

1970(昭和45)年3月 23歳。大学卒業。
全国に拡がった全共闘の学生運動は1969年11月に終わった。翌70年2月、上京。結婚。中野区沼袋のアパートに住む。74年に横浜へ引っ越し、その年に長女誕生。78年、長男誕生。

 一九六〇年代後半の学生運動の時代が終わったな、と思ったのは三波春夫の「こんにちは/こんにちは/西の国から/こんにちは/こんにちは/東の国から」という歌が流れ始めたときである。

 大阪で万博がはじまった。日本中がいっせいに万博でわきかえっている感じだった。三波さんには悪いが、生まれてこのかたこれほどの能天気な声は聴いたことがなかった。歌詞は「一九七〇年のこんにちは」とつづいた。

 ある日、目覚めたら、経済大国になっていたのである。あの歌に接しながら、ただ眼前に茫洋と広がっている一九七〇年代という時代に、どう身構えてよいのかその術(すべ)がわからない。
だから赤軍派による「よど号」のハイジャック事件が起きたときは、季節はずれな唐突な印象を受けた。なにをいまさらと思ってから、そうか亡命なのか、と考えた。赤軍派の青年たちは、ほんとうはわかってなぞいなかったに違いない。降り立ったところがとんでもない世界だなんて。

 どこか時空を超えてしまいたいという気持ちは僕にもあった。仮想現実の世界へ行ってしまいたいとの願望である。僕は毎日、アフリカの地図を眺めていた。スワヒリ語ってどんな響きなのだろう、と空想してみた。夢遊病者のようにぼんやりと青年海外協力隊の事務所の前まで行ったが、建物を見上げたときに急に億劫(おっくう)な気分に襲われて引き返した。躯がだるい。微熱かなと思って体温計を腋にさしたが平熱だった。

 七〇年十一月二十五日の白昼、三島由紀夫が市谷の自衛隊で自決した。バルコニー下で自衛隊員が、ばかやろう、と野次を飛ばしたと聞き厭な感じがした。三島の映像は遠い世界の出来事のようにも感じられた。すでに「祭り」は終わっているのに、と。

 就職試験を受けずに、道草を食っていた。学生ではないのだから、仕事を見つけなければいけない。一足早く大学を出て競馬新聞の記者をしていた男が、「こんな仕事は飽きた。ひと儲けしないか」と誘いに来た。友人に土建屋の息子がいる。彼は独立したがっている。いっしょに事業をやらないか。建設現場の親方になればよい。完成間近のマンションには、工事中に出たコンクリートの塊やゴミがたくさんある。その片付けを請け負い、学生アルバイトを集め差配するのだ。口コミで三、四十人の学生が集まった。東大中退もいれば高校中退もいた。大学は長 い間ストライキばかりやっていて、すっかり騒ぎも片付いたのに学校を辞めてしまったり授業に出る気がなかったりする学生はめずらしく なかった。

 一九七三年のオイルショックまでは、そんなふうに漂っている若者が大勢いた。ある日、ヒッピー風の長髪に髯面の男が、 仕事をやらせてくれ、と言ってきた。無口でよくはたらいた。幾日かともに行動しているうちに、冗談を言い合う間柄になった。

「三島由紀夫は凄いよ、ほんとうに死んじゃうんだもんな」
乾いた小さな声である。短い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「死ぬって、凄いなあ」
僕は大人びた口調で遮った。
「でも小説に書いてあるような出来事なんて、実際にはないんだ」
彼は遠方に視線を泳がせ、またつぶやいた。
「死ぬって、凄いなあ」
中途半端な状態の自分が責められている。そんな気がした。
「青春にクライマックスがあるってのは、あれはウソだぜ」
彼にそう言ったのか、自分に向かって言ったのか、いまは憶えていない。

 数年後、三菱重工ビル爆破事件が起きた。しばらくして朝刊の一面トップに「連続爆破事件で七人逮捕」の文字が躍った。「東アジア反日武装戦線」と名乗る彼らの顔写真のなかに長髪を刈り込み髯をきれいに剃った背広姿のあいつの顔を見つけた。僕の眼は釘付けになった。逮捕される寸前、青酸カリ入りのカプセルを呑み込み自殺、と報じられている。

 すでに建設現場の仕事はオイルショック後、うまく回らなくなっていた。その間に僕は若い「親父」になったのだ。生まれたばかりの娘をあやしながら幾度も同じ紙面を開いたり閉じたりしていた。

「微熱を気にして」(99・7)『明日も夕焼け』所収

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