1979(昭和54)年 32歳。
中央線中野駅北口の近くにワンルームの仕事場を持ち、本格的に雑誌の記事を書きはじめる。本田靖春著『誘拐』を読み、こういう方法もあるのか、と感心した。
30歳の頃
僕が、トルーマン・カポーティの翻訳されたばかりの『冷血』を初めて読んだのは学生時代、一九六七年春のことだった。いまでこそノンフィクションの時代といわれているけれど、当時は、そういう言葉は使われなかった。使われなかったけれど、小説のゆきづまりということは、随分とかまびすしくいわれていた時代で、それだけ、逆に小説に対する期待がまだ強かったともいえる。『冷血』の、事実を徹底的に洗い出すことによってつくる手法は大きな話題になっていた。その年の秋、一〇・八羽田闘争で京大生が轢死するという惨事が起き、学生反乱の季節を予感させたのだった。そして、僕も若くて性急な世代の一員として、ご多分にもれず、フィクションの世界よりもずっと劇的な体験のようにみえた学生運動にのめりこんでいく。
昂奮の波にとらえられたひとつの時代は、あっという間に潮にさらわれて去っていった。その後、僕は長いモラトリアムのなかで、『日本凡人伝』を著す気持ちになった。カポーティが『冷血』以来の長い沈黙の末に『カメレオンのための音楽』を出したことは、僕個人にとってもひとつの感慨なのである。
その序文は、ある種の疲労の匂いと率直で奇妙なほどの初々しい述懐が混在して、不思議な高揚感に抱かれている。彼は、こう述べている。
「(『冷血』では)著者を消しさることが不可欠だと、私には思われた。実際に、私のどのルポルタージュでも、できるだけ自分が目につかぬように心がけていたのである。しかしながら、私はあえて自ら中央舞台に位置せしめ、ありふれた人との普段の会話を、地味にまた簡潔に再構成してみた。私の住んでいる建物の管理人とか、ジムのマッサージ師とか、古くからの学友とか、かかりつけの歯科医とかの会話である。このような他愛もないことを何百頁も書いてから、私は、ついにある文体を引き出した」
僕は、カポーティの気持ちを百分の一くらいはわかるつもりである。
「トルーマン・カポーティの実験」(84・4)『僕の青春放浪』所収