1983(昭和58)年3月 36歳。『天皇の影法師』を朝日新聞社より刊行(87年新潮文庫、00年朝日文庫)。
書き下ろしである。雑誌の記事を書きはじめて生計をたてるようになってから、出版の機会はちらほらあったが全部断わっていた。橋川先生との約束にこたえる作品が書けそうな気がしてきたが、なお数年の準備期間が必要だった。
僕は国民金融公庫の世話になったことがある。窓口で一時間ほど説明したが、相手は首を傾げる。主旨がなかなか伝わらない。僕は三十代前半、窓口の青年は二十代後半である。
雑誌の連載を何本か持っていたが、単行本は出してなかった。もの書きを商売にするのはおこがましいというか、一種の自重のようなものがあった。二十代に言葉とか観念を一度棄てたつもりになったからである。このあたりの機微はうまく説明できないが、いまでもつづいている。ほんとうである。とりあえず職人的に雑誌の仕事をしていようと思っていた。いっぽうでいつまでもモラトリアムを延ばすわけには行くまい、との予感があった。作品化を避けてきたのに、作品化への志向は棄てられなかった。
単行本を書き下ろしで出すことにした。企画から出版まで二、三年は覚悟しなければならない。宵越しのカネはない。日銭稼ぎの原稿をセーブすれば収入の当てを別に求める必要が出てくる。よい手はないか、とつぶやいていたら、国民金融公庫なら無担保で貸してくれるらしい、との情報を得た。こうして窓口を訪れた。日本の銀行は担保がないと貸してくれない。担保はほとんどが土地である。土地の大きさに比例して金額の多寡が決まる。外形的な審査である。
僕は、作家という事業の将来性について説明しなければならなかった。ソフトについて語れば、ほとんど詐欺師扱いを受けるのが日本国の金融機関のつねである。窓口で、これから書きはじめる作品を説明した。出版社が決まっているのは強みだが、考えてみると日本的慣行では出版契約書がない。
いずれ「昭和」が終わるけれど、と切り出すと、何を言っているのだこの人は、と窓口の青年が妙な顔になる。文豪の森鴎外がね、「昭和」という元号を考えた責任者なんだよ、それを実証できるんだ、と畳みかけると、もうほとんど外国人を眺めるような具合になった。ミステリー小説仕立てにすれば必ず売れます、したがって返済能力についてのご心配は要りません、などと勝手なことを言う珍客であった。
誠実な青年は困惑しながらも、なんとか理解しようと努めているふうであった。だが彼のデータには僕のようなタイプについてインプットされていない。だが僕が嘘をつく悪い人間ではない、とは思ったようだ。説明をはじめてから一時間ほど経った。そういえば……、と青年は言った。以前にも同じような人が来ました、とほっとした表情になった。若い映画監督を挙げた。僕はその映画監督の名前を知っていた。青年はよく知らぬようであった。映画監督の将来性よりも月々の返済をきちんとしているかどうかが問題なのである。ちょっとお待ちください、席を立ち書類を掻き回してから戻って来た。滞りなく返済中です、と微笑んだ。大丈夫ですよ、僕も。こうして融資話は成立した。保証人欄には妻の名前を記入した。
数年後、『天皇の影法師』が朝日新聞出版局から発行された。僕の勝手な予想に反し単行本はあまり売れず、文庫版(新潮文庫)になってから十五万部ほど出た。書き下ろしはこれが最初で最後である。
「〈銀行〉がダメなら〈中小・国民金融公庫〉がある」(98・1)『僕の青春放浪』所収