1983(昭和58)年秋 仕事場を曙橋へ移したあと、「週刊ポスト」から連載の打診があった。
この年は『天皇の影法師』のほかに8月に『昭和16年夏の敗戦』(「BIG MAN」82年7月?12月号に連載、86年文春文庫)を世界文化社より、11月に『日本凡人伝』(「スタジオ・ボイス」82年12月?83年12月号に連載、85年新潮文庫)を弓立社より、12月に『死者たちのロッキード事件』(「週刊現代」83年3月5日?4月9日号に連載、87年文春文庫)を文藝春秋より、それぞれ刊行した。 「週刊ポスト」の関根進編集長に会い、『ミカドの肖像』の連載を約束したのはこの年の12月である。
1985(昭和60)年5月『あさってのジョー』新潮社(※初出「スタジオ・ボイス」84年1月?85年2月号、88年新潮文庫化の際に『二度目の仕事』に改題
「ミカドの肖像」でロンドン取材中
僕が週刊誌で仕事をするのは、作品づくりにコストがかかるからだ。
週刊誌は資金が潤沢にあるし、原稿料が高い。こういう単純な事実は、なぜか日本では表沙汰にされない。小説雑誌、とくに純文学系の雑誌は同人誌に毛のはえた程度の部数しか出ておらず、原稿料は安い。純文学という言葉は、いったいなにを意味するのだろうか。なぜか純文学誌に書いたものだけが純文学であり文芸批評なのだ。『オール読物』は中間小説と呼ばれ、また週刊誌の連載も同様に見られ、ときには大衆小説とも呼ばれるから、そうすると林真理子の小説は純文学ではない、とされる。
純文学とはなにか。村上春樹などごく一部の作家は単行本が売れるから、純文学誌の安い原稿料でも困らない。だがほとんどの「純」のつく作家、批評家は本が売れず、結局、純文学誌では食えないので大学の先生になってしまっている。マーケットで勝負していないのである。五十代、六十代ならともかく、働き盛りの三十代、四十代で給料をもらう生活をしてしまったら、原稿を書かずに仲間と呑み歩いて、結局、狭いムラの話になり人の悪口を言って溜飲を下げるような情けない状態になる。社会主義の作家同盟のようになってしまう。
人生にコストをかけてきた人なら、誰でも一冊や二冊はかける。だが作家として継続的な生産活動をしていくためには、再生産を前提として仕事をしなければならない。そのためには自己に鞭打ち、叱咤激励するために締切りを設定し、取材コストをかける必要がある。安い原稿料ではとうてい不可能だから、必然的により多くの部数の出ている雑誌が舞台になるのだ。週刊誌は月に四回刊行されるから、月刊誌の四倍分の部数と考えてよい。
作家のなかには、あちこち書き飛ばす人がいるけれど、締切りに追われるだけで散漫になってよい仕事、残る仕事はできない。僕はスポットの仕事はいっさい引き受けない。連載にすべてを集中する。準備に一年、連載に一年、最低二年は同じテーマを毎日考えることになり、そうすれば作品が深まると信じている。
いまから十五年ほど前、一九八三年の歳暮、僕は週刊ポストのS編集長(当時)に食事に誘われた。その年のはじめ、僕は『天皇の影法師』を朝日新聞社から出している。Sさんは、こうけしかける。
「どうでしょう。うちでも天皇ものをやりませんか」
いずれ昭和天皇のXデーがくる。さすがに週刊ポストを部数日本一にした編集長、用意周到に種を蒔いておこう、と考えているようだった。
「相当の準備期間と取材費がかかりますよ」
僕はそう答えた。日本人は、こういう場合、なぜかおカネの話は禁句である。すでに僕は腹案があって、まったく新しい切り口で天皇問題をやるのであれば、世界を一周するぐらいの覚悟が必要だと思っていた。おカネの話は決して駆け引きではなかった。外国人の書いた近代史の本は、ほんとうに時間とおカネの両方のコストがかかっている。そしてわかりやすい。それに較べると、日本人の学者や作家の書いた天皇論は、とても貧弱だった。おカネの話は禁句だから、しばらく別の話題になった。そうこうしているうちに話が終わるのが日本の出版界のつねで、要するに安上がりで売れる本をつくることしか考えていない。ところが、Sさんは、おカネが要りますよと言ったら、かえってテーマに興味を抱きはじめた。天皇問題を、コストがかかる手法でやるとはどういうことか、好奇心が刺激されたようであった。
同じくロンドンにて
「世界史のなかで日本の天皇制をとらえるんです」
僕はそう説明した。いまでこそ「世界史のなかで」という言い方があたりまえになったが、日本的で特殊な天皇制を世界史のなかで、は新鮮だった。週刊ポストで『ミカドの肖像』の連載がはじまったのは、それから一年後であった。海外取材と徹底した資料の収集のために、予定通りコストがかかった。ページ当たりの単価が決まっており、それをはみ出すのはふつうなら厭がられる。しかも、連載が開始されていない時点での支払いは異例であった。S編集長はそれを認めてくれ、めまぐるしく準備の一年が終わった。
レイアウトは当時、新進気鋭で実験的作品を精力的に発表していた菊地信義さんに依頼した。僕が直接、面談に赴いた。イラストレイターは、まったくの新人を発掘した。既成の雑誌ではいっさい仕事をしたことがない二十四歳のお嬢さんを、「アンアン」の個展案内で偶然に見つけた。その石丸千里さんは、京都に住んでいた。上京する機会があったら連絡してほしい、と伝え、渋谷の喫茶店でお会いした。週刊ポスト誌を拡げて説明しようとしたら、いきなりグラビアページが開いてしまった。そのヌード写真を見て、石丸さんは驚いて恥ずかしそうな顔をした。男性週刊誌など一度も開いたことがなかったからである。
週刊ポストで『ミカドの肖像』の連載を開始すると、よくもあんな大衆誌でタブーの天皇ものをやれたねえ、とあちこちから声をかけられた。イラストがおもしろい、レイアウトが大胆だ、と評判になった。
すべてをひとつの仕事に傾注すればきっとよい作品が生まれるし、レイアウトやイラストなど編集者的な要素まで受け持つようになる。そこまで職人的にやらないと落ちつかないし、気分をそこまで昂めることが大切だと思う。資金をふんだんに注ぎ込むというあたりまえの話が通らなければ、仕事への集中力もつくれない。にもかかわらず、おカネの話を禁句とする編集者が多い。
週刊ポストは相変わらず、部数日本一である。だが一時、週刊文春がその部数を追い抜いたときがある。そのときの編集長はHさんである。いまは他社にスカウトされ、女性誌の編集長になっている。Hさんも、僕がまだ駆け出しのころに仕事を依頼してくれた。彼もまたデスクになりたてのころだった。そのとき最初に、札束をポンと机の上に置いた。同時に言った。
「すぐに出張に行ってくれないか」
少々、下品な依頼の仕方ではあったが、駆け出しで懐具合が貧しい時期で、ありがたかった。
コストをかける作家ほどよい仕事をする、と僕は都合のよい解釈をしているが、Sさん、Hさん、二人とも作品づくりにコストが要るということをよく承知していた。そして彼らの共通点は、迷いがないことだ。わかった、と思う際のわかり方のスピードである。ぐずぐずしていたら、書き手としては、ああヤル気がないんだな、共感してくれないのか、と落ち込んでしまうから。
優れた編集者がいたおかげで、僕の仕事のスタイルが確立した。そのスタイルはいまも継続している。週刊ポストでは、一年準備、一年連載の原則をずっと守らせてもらっている。『ミカドの肖像』『土地の神話』『欲望のメディア』『黒船の世紀』『ペルソナ三島由紀夫伝』のいずれもが週刊ポスト連載である。そして現在、『マガジン青春篇』が連載中(連載は九八年三月まで)で、いずれ小学館から単行本として発売される。またHさんが週刊文春編集長のときに始めた連載コラム『ニュースの考古学』は、すでに七年目に入り、三百回を越えている。
残念なのは地方在住の読者は週刊誌に偏見があり、旅行に出かけるときぐらいしか読まないことである。単行本で読んでいただくのもよい。だが、書き手が一回、一回の連載の締切りを必死で間に合わせているスリルをともに現在進行形で味わうのは、案外おもしろいと思うのだけれど。
「よい仕事にはコストがかかる」(97・3)『僕の青春放浪』所収